ブログ!(徒然日記)

2026-08-30 17:13:00

店を増やしたくて、増やしたわけではない

店を増やしたくて、増やしたわけではない

 

「何店舗やってるんですか」と聞かれることがあります。

 

五つです、と答えると、たいてい「すごいですね」と言われます。拡大していますね、と。

 

でも、正直に言うと、増やしたくて増やしたわけではありません。

 

二十四年やってきて、後から振り返ってようやく分かったのですが、私の場合は事業計画が先にあったことが一度もない。人がいて、事情があって、その最適解を考えたときに、結果として店ができていた。順番がずっと逆でした。

 

五つの店には、五つとも違う理由があります。今日はそれを、正直に並べてみます。

 

 一軒目 ── 飲食をやるつもりは、なかった

 

私は寿司と和食の店の長男として生まれました。実家は今も戸出で寿司屋をやっています。

 

それなのに、自分が飲食店をやるつもりは一切ありませんでした。

 

始まりは、一緒になると決めた人が、お菓子とパンの職人だったことです。作る人がいた。親は親で「そろそろ人生のターニングポイントだろう」と勝手に捉えていて、私自身も確かにそういう時期でした。

 

いくつかの現実が同じ一点で重なった。それが一軒目です。

 

市場調査をしたわけでも、勝算があったわけでもありません。作れる人がいたから、店ができた。それだけです。

 

 二軒目 ─  厨房が、狭かった

 

一軒目が地元になじんだ頃、お菓子を作りたいというスタッフが増えてきました。

 

ところが、寿司屋の中の菓子厨房は小さすぎたのです。いい仕事をするにも、人を育てるにも、あの場所では限界がありました。

 

だから砺波に出ました。生菓子とケーキ、焼きたてのパン、焼き菓子、自家焙煎のコーヒー、ギフト。当時はまだ珍しい複合型の店でした。

 

自家焙煎を始めたのも、この店からです。それまでは業者さんから豆を仕入れていました。

 

なぜ自分でコーヒー豆を焼くようになったのか。理由ははっきりしています。妻が作るお菓子とパンに、いちばん合うコーヒーを焼きたかったからです。

 

一軒目ができた理由と、同じ人です。作る人がいたから店ができて、その人が作るものに合わせて、私は豆を焼き始めた。今はそこにスタッフやパティシエが加わって、彼らが作るものに合わせて焼いています。

 

コーヒーが主役だと思ったことは、実は一度もありません。焙煎士としての私の出発点は、縁の下の力持ちでした。今もそこは変わっていません。

 

二軒目も、人が先です。作りたい人がいて、その人が働ける場所が足りなかった。だから店ができた。

 

 三軒目 ─ 呼ばれて、出しました

 

十二年前、南砺市福野のアミューショッピングセンターの中に出しました。

 

これは自分から出した店ではありません。当時の事務局長さんから声をかけていただいたのです。

 

アミューは、もともと街の商店主のみなさんが持ち株を出し合って株式会社を作り、その原資で建てた商業施設でした。全国でショッピングセンターが次々にできていた時代の話です。街の人たちが、自分たちのお金で変化に賭けた器だった。

 

それから30年近くが経ち、商店主の高齢化と後継者不在が進んでいました。決定的だったのは、ハウスカードの会員のうち、65歳以上が75パーセントを占めていたことです。

 

売上はまだ立っている。でも、五年後、十年後はどうなるか。

 

答えは単純でした。若い家族、若い女性、子ども、働く男性が来ない店は、それすなわち崖っぷちだと。

 

だから「あなたたちのような若い人にリーチできるカフェを誘致したい」というお話でした。私は商品ではなく、客層を期待されて呼ばれたわけです。

 

衰退は、売上が落ちてから始まるのではありません。客層が高齢化した時点で、もう始まっている。あの話し合いで、私はそれを教わりました。

 

人口5万人を切る市です。既存店から車で15分。立地の教科書からすれば、選ぶ理由はありません。

 

それでも受けました。理由は、その頃すでに大都市や交通量の多い場所での出店に、魅力を感じなくなっていたからです。

 

これは自慢話になってしまいますが、私はこの二十四年間、初詣で商売繁盛を願ったことが一度もありません。繁盛したくないのではなく、大きな波やうねりを求めていないからです。凪がいいわけでもない。毎日の地道な人通りと、お互いの波長が合うリズム。それをずっと作りたかった。

 

南砺は、そのリズムに近い街に思えました。

 

そして、この店を出して数年後、私は南砺の山の近くに古い家を買いました。当時三十代半ばで、終の住処を探して空き家を百件近く見ていた時期です。田んぼと畑と庭があって、子育てができて、自分たちの生活のリズムが作れる場所でした。

 

昭和の匂いと人の温かさに呼ばれたな、という感覚があります。占いのような話をしたいわけではありません。ただ私は昔から、その場の空気や目に見えないものを受け取る体質で、あのときそれを感じました。それは正解だったと今も確信しています。

 

店に呼ばれて、住民になった。順番としては、そういうことになります。

 

十数年経った今、この南砺の店が、五店舗でいちばんの繁盛店です。十年以上、毎年、無理なく売上を伸ばしてきました。

 

喫茶店で生き残るのは、本当に大変です。コーヒー一杯五百円、六百円の世界で、百杯売っても五、六万円。一店舗あたり常時二、三人のスタッフを抱えて、ほとんど休みなく回す。そのお金を毎日捻出することが、事業者としての私の使命です。

 

それを、値上げで無理やり作ったわけではありません。お客様が特別感や付加価値を求めて来てくださって、その中で単価が上がり、客数は落ちていない。**値段を上げたのではなく、来る理由を作った。** そういう十二年でした。

 

 四軒目 ─ 自分の店ではない店

 

五年前、高岡大仏の横に amida coffee を出しました。

 

この店だけ、屋号が違います。理由は、これが私の会社の店ではないからです。

 

この三十年、四十年で、日本中の街が薄くなっていきました。シャッター街というニュースは全国どこでも同じ形で起きています。大きなものにお金も人も集約されて、その近くでは空洞化が進み、そこで働く人の手取りまで減っていく。

 

今なら私も構造的に説明できます。でも当時は、まったく理解できていませんでした。私も分かっていなかった側の人間です。

 

高岡でも、この街のにぎわいをどう取り戻すかという集まりや講座がいくつもありました。そこで出会った仲間と、まちづくり会社を作りました。その会社の代表として立ち上げたのが、amida coffee です。

 

大仏さんの歴史に詳しい方から聞いた話が、ずっと心に残っています。

 

もともと大仏様は、崇拝と祈りの対象でした。けれども時代が変わって、今の阿弥陀如来様は観光の象徴として、人をこの街に呼び、その周りで商いを成り立たせ、街を潤わせるための化身のような立ち位置におられる、と。

 

大仏様ご自身が、役割を変えて生き残ってこられた。

 

私たちが十数年前から、あの場所をそういう場所にしたいと動いてきたことが、五年前にようやく形になりました。

 

五軒目 ─ はじめて、自分から

 

そして富山市の総曲輪です。

 

これは五つの中で唯一、自分の意思で打った店です。

 

きっかけはいくつも重なりました。コーヒーマイスターが手がけたコーヒーロールがテレビで取り上げられ、一晩でオンラインショップに3000件の注文が入り、インスタグラムのフォロワーが1000人以上増えました。携帯が焼けるかと思うほど通知が止まりませんでした。その波も一、二年で落ち着きましたが、今度は富山市がニューヨーク・タイムズの「行くべき街」に選ばれました。もともと富山空港や新幹線のお土産店に卸をしていたこともあります。

 

条件が揃ってしまった。そして、そこに若いスタッフのやる気と思いがありました。

 

正直に言えば、これが望んだ形なのかどうかは自分でも分かりません。インバウンドも円安もテレビも、私が起こした波ではないからです。うねりを求めないと言ってきた人間が、今いちばん大きなうねりの上にいる。その矛盾は隠さないでおきます。

 

それでも出したのは、危機感です。人生は短い。ここで一つ挑戦を打たなければ、あとは老いる一方だと思いました。

 

五つの理由

 

並べてみると、五つとも違います。

 

一軒目は、作れる人がいたから。

二軒目は、作りたい人が増えて、厨房が狭かったから。

三軒目は、街に呼ばれたから。

四軒目は、自分の店ではなく、街の店として。

五軒目は、自分の危機感から。

 

拡大戦略という言葉が当てはまるのは、五軒目だけです。

 

これから店を始めたい方に、私が言えることがあるとすれば、それは「計画から始まらなくてもいい」ということです。事業計画書に書けるようなきれいな理由から始まった店は、私には一つもありません。

 

ただし、これは裏返すと厳しい話でもあります。人から始まった店は、人がいなくなれば形を変えるしかない。実際、私たちも一度そうしました。

 

パンと生菓子を、やめたのです。

 

次回は、その話を書きます。増やした話ではなく、手放した話です。二十四年で私が学んだことの、たぶん半分はそちらにあります。